最近は「多様性」が謳われます。
パラリンピックの開会式でも多様性が打ち出されていて印象的でした。
テレビドラマもLGBTをテーマにしたものが増え、普通になってきました。
ただ、「普通」を超えて、どこもかしこも、どの局も、どのドラマも、乗り遅れるな、みたいな雰囲気を感じることもあって、それはそれでどうなの?と思うこともありますね。
そして何よりもおっさんがLGBTを意識するようになったのは子供が読むマンガです。
BL(Boys Love)は当たり前。内容も様々で、興味本位のもの、考えさせられるもの、心に響くものなどあるようです。
そして、我が子はジェンダーレス。男だからとか女だから、といったジェンダーの垣根が低いです。
子供に影響を受け、多様性やLGBTについて改めて考えてみました。
マイノリティはじっと我慢が当たり前
少なくともおっさんが中学生の頃はまだ多様性が謳われる時代ではなかったので、マイノリティは好奇の目で見られからかわれたり仲間外れの対象でした。
でもそんな中、1つ下の学年に仕草や言葉使いが女性の男の子がいました。
学生服に短髪でしたが、背は低くてかわいらしい男の子だったせいもあってか、女性っぽい仕草でもそれほど違和感を感じませんでした。
何よりも、全く隠そうとせず、堂々と当たり前に女性らしい言葉遣いで女性らしい仕草だったので、周りも圧倒されて?なのか慣れてしまってなのか、男のくせに、とバカにしたりする雰囲気はありませんでした。
言葉や仕草だけなので、彼がLGBTだったのかは分かりませんが、何かしら男性性に違和感を感じていたのは確かなんだと思います。
昔は彼のような人にとっては生きづらかったでしょうね。
女性っぽい男の人は、おかま、ホモと言われからかわれていた時代です。
そんな中、彼は堂々と自分の世界を造っていました。
あの頃、彼のようにマイノリティの自分を出せる人は珍しかったと思います。
彼がいたから、身近にもLGBTの人がいることに気づけましたが、他にも今まで出会ってきた人の中には表に出せないLGBTの人がいたのかもしれません。
最近でこそLGBTという言葉で取り上げられるようになり、カミングアウトする人も増えてきましたが、今の時代でもまだまだ言えない人も多いのでしょうね。
LGBTを受け入れられる?
多様性故に理解する必要はない
これからは多様性の時代。
とは言いますが、じゃあ、LGBTの人を受け入れられますか?
理解できないものを無理に理解する必要はありません。
LGBTを気持ち悪い、って思うのは自由です。
そう、思うだけなら、です。
自分がどう思おうが自由ですが、他人の内面や思想は否定できません。
相手の思想や指向を否定したり差別する発言や行動をすると、人権侵害です。
自分の価値観にはめようとするからおかしくなる
LGBTの人を生産性がない、異常だ、などと非難し炎上する政治家がたびたび現れます。
生産性がないとは?
LGBTの人は子供を作りませんからね。その事を指して言ったのだと思いますが、人間は家畜ではありません。
人が増えれば税金も増える、人の数が増える=生産性が高い、という考え方から出た言葉なんでしょうけれど、人間を家畜のように、単なる肉体の数だけで価値を判断しているようで、気持ち悪いです。
人には創造性があり、人々の感性に訴え、一大ムーブメントを生み出す力があります。
フレディマーキュリーがどれだけの経済効果を生み出したか?といったことまで考えが回らない、視野の狭い、さもしい価値観からの一方的な発言だったと呆れます。
その発言を問題視し、その政治家を非難し、事実上失脚させた世の中は、少なくとも昔より成熟してきているのだと救われる思いがします。
でも、また比例で当選していましたね。政治家から必要とされる人は、必ずしも国民から信頼を得られる人とは限らない、ということですね。
LGBTを理解できない人がいても良いのです。でも、否定したり変えたるすることはできません。たとえ政治家であっても。いや、政治家であればなおさらですよね。
子供がLGBTだったら?
では、身近にLGBTの人がいたら、子供がLGBTだったら受け入れられますか?
自分の子供がLGBTだったら?うーん…。
自分に子供ができた喜びを知っているので、どうしても同じ喜びを子供にも、と思っていまい、LGBTだと言われても簡単には受け入れなれないでしょうね。反対してしまいそうです。
でも、それがまさに価値観の押し付けなんでしょうね。
そして、反対したからといって変わるものではないですよね…。
本気で心から愛する人を見つけられたのであれば、止めることはできないんだろうなぁ。
孫が見られないのは残念な気もしますが、でも男女が結婚したからって必ず子どもが生まれるわけでもないですからね。孫はまだか?と急かすのも価値観の押し付けです。
子供とはいえ人は人。人は変えられません。
受け入れるしかなさそうです。
自分がLGBTだったら?
逆に、自分がLGBTだったら?と想定し、親に言えますかね…。
親や家族は自分のことをどう思うだろうか?それを考えたら、言えないなぁ…。
でも、親のために好きな人を諦めたりすると、それはそれで後悔しそうです。
結局親は何をやったって心配しますからね。結婚しなくても心配するし、結婚したらしたで心配します。
どうせ心配かけるなら、自分が一番愛している人を選んで心配してもらえばいいのでは?
悲しませて勘当されるかもしれないけど、親はいずれいなくなるんです。
親を選んでずっと独身で心配をかけ続けるか、好きな人と一緒になって親から離れるか?どちらかです。
親として一番嫌なのは、親に忖度して何も言わず好きな人を諦め、「親のために諦めた」と親のせいにして我慢する事です。
我慢は怖いです。我慢はいつか爆発します。
だったら我慢せず親に本当の気持ちを伝え、とことん闘ってもらいたいですね。
すっかり親目線で書いていますが、本当に好きな人ができたら、我慢せずに親に紹介するのがきっと良いと思います。
自分の子どもを愛してくれる人が現れたのであれば、今どきの親は案外LGBTにも理解を示してくれるかもしれません。
LGBTとは?
おっさんはLGBTとは人間の高度に発達した脳だからこそ起こりえる、心の性と体の性の不一致からくる違和感、と推測したのですが、調べてみると人間以外の哺乳類にもLGBTは見られるそうですね。
視床下部という本能的な行動を司る中枢の一部「前視床下部間質核」によって決まるらしく、大脳の発達とは関係ないようです。
仮に自分の性に違和感を感じている動物がいたとしても、訴える術が無いので理解してもらうことができないですものね。
そもそも動物は心の性と体の性の違いを理解できません。違和感すら感じないのですね。
心の性と体の性の違いを認識し、違和感を伝えることができる人間だからこそ起こりえる問題なんですね。
そう考えると、動物は自由で、人間は不自由ですね。
人間ももっと自由で楽になれるといいのに…。
動物のように、自分の好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、で留めておけば良いのですね。
人間のように、自分の事じゃない他人の行動にまで「あなたの行動は気持ち悪い」、「あなたの行動は異常だ」なんて言えちゃうから問題になるんですね。
なるほど。脳の「前視床下部間質核」が決めている性には、男、女、L(レズビアン)、G(ゲイ)、B(バイセクシャル)、T(トランスジェンダー)があり、これは本能なので、動物のように本能的に振る舞えばよい。それだけのことなのですね。
なんだかスッキリしました。
まとめ
LGBTとは、男、女以外に、元々動物が持っている(心の)性でした。
LGBTは少数、マイノリティーなので、同じ人間であってもほとんどの人にはその感覚が理解できません。
だから、男、女の2つの性しか無い、と決めてしまい、そこから外れた人を非難したり差別してしまいます。
LGBTの人も、男と女の2つの性しか無い、と教えられてきたので、そこから外れている自分のことを「おかしいのでは?」と違和感を感じてしまいます。
動物にもLGBTは存在しますが、そんな違和感を感じることがないので、自分の感じる心の性に忠実に、本能的に自由に行動できます。 LGBTは問題になりません。
おっさんがLGBTをこのように理解した時に、何かに似ている、と思ったのが現代アートです。
現代アートは、古典芸術のように見た目の美しさを追求した芸術ではないので、ぱっと見は分かりづらいです。
人の内面に訴えかけ、「これは一体何なんだ?」と考えされられます。
考えて、そこに意味を感じる人がいて初めて成り立つ芸術です。
古典芸術しか理解できない人にとってはゴミ扱いでしょうね。
現代アートを理解できる・できない、は人それぞれです。
もし、現代アートを理解できない人が、他人の所持している現代アートを「自分には理解できない作品なので廃棄せよ」と言えば、それは単なる横暴です。
無理やり廃棄するようなことをすれば逮捕されます。
LGBTを理解できないから、と、避難したり否定することはもうやめましょう。現代アートと同じですよ。
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